掲示伝道 2021年7月

2021年6月30日水曜日

掲示伝道 法話

t f B! P L
人として生まれて、
人としていきていく中心を教えられ、
問われ、学んでいく。
そういう営み全体が「宗教」という事です。
四衢 亮
あなたは何を中心として生きているのだ?
と聞かれたら、みなさんどう答えられるでしょう。今年一年何を中心に生きてきたか。これまで何を大切にし、何を中心にして生きてきたか。その時その時に大切にしてきたことはあった筈ですし、その時その時に中心としてきたことはあるでしょう。しかしそれはその時の自分の要求をすべてにしてしまい、相対的に物事を見ず、自分自身の欲求を絶対化してしまっているのでは無いでしょうか?
自分自身の大切なもの「健康・家族・お金…etc.」さえ守れたらいい。そういう形でそっくり自分を正当化し、それを守ろうという宗教観。そういうものを宗教としてきているように思います。つまり宗教が「自分の大切なモノのため」のモノになってきてしまっているのです。ですから、お金や健康を宗教に頼るなどと言いたくないから「無宗教」と答えたりするのではないでしょうか。

しかし親鸞聖人の仰るのは違うのです。そういう事をしてきている自分が問われる。問われることで、はじめて「その時の自分の要求さえ通れば良い」という形で生きてしまう私を課題として生きていく。ということだと思います。

あるところで、「病気は自分が作ってしまったものなので薬で治しても解決にならない。病気という縁は必要あって天からいただいたものなので自分自身を見直すことから」と書かれていました。だから受け入れなさい。自分を変えなさい。という事でしょうか。
確かに自分自身を課題として受け止めているように感じられるかもしれません。しかしそういう事ではないのです。

そうやって自分自身を責める事が宗教なのでもありません。

本当に大切なのは、こうやって「自身も含め何かのせい、にしている自分自身」を中心にある課題としていく事ではないでしょうか。先月もかきましたが、今ここにある世界がきちんと受け止められる。その一点だと考えます。

誰だって病気になりたくはありませんし、歳だってとりたくありません。生きる事に苦しくなければ死にたくもありません。しかし誰だって避けて通れません。
病むことも、老いることも、死もまた特別なことではないのです。

最後に、もうひとつ言葉を紹介します。
智慧とは
頼りにならないものを
頼りにしない
深く静かな勇気である
渥美雅己

智慧:仏さまの智慧。どんな時代でも、どんな立場の人にも通じる、ものの道理を見るはたらきを言います。

何かのせいにせず、病気を精一杯生きる。
老いを精一杯生きる。
死を精一杯迎える。
それを受け取る勇気をくれるのが「宗教」というものだと思います。


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四衢 亮 (よつつじ あきら)
1958年岐阜県高山生まれ。真宗大谷派高山教区不遠寺住職。
真宗大谷派「青少幼年センター」研究員。
著書に『ワンコインブック「浄土」・「往生」・「他力」ほか』『カルトと私たち』『時言』『観無量寿経の教え-仏との出会い』(東本願寺出版部)など。






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