掲示伝道2022年2月

2022年1月31日月曜日

掲示伝道

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我是すれば彼は非す
我必ず聖に非ず
彼必ず愚かに非ず
共に是れ凡夫ならくのみ
聖徳太子 十七条憲法

2月22日は聖徳太子のご命日です。
今月の掲示伝道は十七条憲法より第十条の言葉です。
あらためて十条の全文を読んでいきます。
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもえりのいかり)を棄(す)てて、人の違(たが)うことを怒(いか)らざれ。人皆(みな)心有り。心おのおの執(と)れること有り。彼(かれ)是(よみ)すれば我(われ)は非(あしみ)す。我是すれば彼は非す。我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚(おろ)かに非ず。共に是(こ)れ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あ)しき理(ことわり)、詎(たれ)か能(よ)く定むべけん。相共に賢く愚かなること、鐶(みみかね)の端(はし)無きが如し。是(ここ)をもって、彼(かれ)人(ひと)瞋(いか)ると雖(いうと)も、還(かえ)りて我が失(あやま)ちを恐れよ。我独り得たりと雖(いうと)も、衆(もろもろ)に従いて同じく挙(おこな)え。

世の中には色々な考え方の人が居ます。たくさんの人がいれば、それだけ多様な考え方があります。時には意見が合わず、話し合いなどが平行線を辿(たど)ったままであったり、また、激しく対立することもあります。
 聖徳太子はこの十七条憲法の中で、「私が聖者であるわけではない。彼が愚かであるわけではない。お互いに凡夫でしかないのである。」と仰っています。
 ところで凡夫とは一体どのような人のことを言うのでしょう。聖徳太子は「人にはみな心がある。その心にはおのおのこだわるところがある」とも言います。つまり、誰もが執着心を持っているのであり、その点においてみな等しく凡夫(ただひと)であると言われます。優劣などない。という事でしょう。
 意見が対立する中で、怒りの感情に支配されたり、自分の立場や判断を正当化するために持論を展開しているだけなのかもしれません。もしそうならば、いくら話し合いをしたとしても相手の意見を誠実に聞き留めることはできないでしょう。
 最近、「論破」という言葉をよく耳にします。まさに「我是すれば彼は非す」だけの世界です。つまり結局は都合の良い言葉を並べて自己の正当性を訴えているのみで何も生み出さないのです。
どちらが勝れているか、ではなく相手にまっすぐ向かい合い話す。それは同じになるという事ではありません。違いをちゃんと認め、頷くことから真の対話が生まれるのではないでしょうか。
バラバラでいっしょ。です。

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