和(やわ)らかなるを以(もっ)て
貴(たっと)しと為(な)し、
忤(さか)うこと無(な)きを
宗(むね)と為(な)せ
聖徳太子 【十七条憲法】
真宗聖典P963※真宗聖典では「為し」ではなく「せよ」
その十七条憲法の第一条、冒頭が今月の言葉です。
せっかくなので全文を見ていきましょう。
せっかくなので全文を見ていきましょう。
一つに曰わく、和らかなるをもって貴しとし、忤うること無きを宗とせよ。人皆党有り。また達る者少なし。是をもって、あるいは君父に順わず。また隣里に違う。しかれども、上和らぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、事理自ずからに通う。何事か成らざらん。
聖徳太子 【十七条憲法】第一条
真宗聖典P963
聖徳太子は覇権争いが絶えない状況に心を痛め、この条文を書かれたのでしょう。『和』とは調和のとれたという意味があり、宗祖親鸞聖人はやわらかなるをもってと読まれています。料理では和え物といったりしますね。
次に『忤』とは背きさからうことです。忤うること無きと書かれていますが、決して誰かの言うことそのまま聞き従えという事ではありません。教えや事実に背を向けないという事でしょう。
次に『忤』とは背きさからうことです。忤うること無きと書かれていますが、決して誰かの言うことそのまま聞き従えという事ではありません。教えや事実に背を向けないという事でしょう。
他人の話を聞くという時、私たちはどうしても自分の都合で聞いてしまいます。人から相談された時などは、どうしても自分のもっている答えを返さなければと思ってしまい、また相談する時も自分の持っている答えと同じ事を言ってくれると安心してしまったりします。
聖徳太子の豊聡耳のエピソードは、物理的に聞き分けられたと言うことではなく、多くの人の言うこと、自分の意見と反対の声にも、しっかり耳を傾けた人であったということでしょう。聖徳太子が実際にどうだったかは解りません。しかし少なくとも、自分自身が「相手の言葉をきちんと受けとめることがとても難しい」と気づいていたからこそ憲法の最初にこの事を書かれたのだと思います。
聖徳太子の豊聡耳のエピソードは、物理的に聞き分けられたと言うことではなく、多くの人の言うこと、自分の意見と反対の声にも、しっかり耳を傾けた人であったということでしょう。聖徳太子が実際にどうだったかは解りません。しかし少なくとも、自分自身が「相手の言葉をきちんと受けとめることがとても難しい」と気づいていたからこそ憲法の最初にこの事を書かれたのだと思います。
更に第十条にはこんな言葉があります。
十に曰わく、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うことを怒らざれ。人皆心有り。心おのおの執れること有り。彼是すれば我は非す。我是すれば彼は非す。我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。是く非しき理、詎か能く定むべけん。相共に賢く愚かなること、鐶の端無きが如し。是をもって、彼人瞋ると雖も、還りて我が失ちを恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙え。私たちは時に、自己をどこまでも正当化し、肯定しようと頑張ります。これもまた十七条憲法にあるとおりでしょう。
聖徳太子 【十七条憲法】第十条
真宗聖典P965
まさにこんな時だからこそ、今一度『きく』という事を大切にしたいと思います。
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